徒然雑記     5月27日

朝8時半、セブン~9時なかよし村~自宅。

10時前控え室・・・。雑務・・・。11時前より、所管部の議案説明を受ける。

12時フィールでやきそば~愛文堂へDVDを取りに・・・曳山、岸本町長さんらが見える。203号の会議があるとの事。1時半控え室・・・。~雑務。 

3時より、観議連の役員会・・・。5時地元、5時半、市民センターへ。区長会があったとの事で、帰り際の数人の区長さんからいくつか要望があった。

唐津焼里まつりのイベント部会に顔を出す。岸岳古窯席の日本遺産の件と県の石の化石部門で選定されたオウムガイの化石のことを話す。和多田の吉田さんより、知人の介護のことで相談あり・・。8時過ぎ帰宅。

唐津市来月から、空き家情報提供~福岡への通勤圏そして伊万里などへの交通の利便性も良くなりつつある。市内各地に空き家が増えつつある中、早急に、居住可能な空き家の情報を取りまとめ、有効活用するのは急ぐべき課題だと思う.

岸岳古窯席が日本遺産になったことはありがたい。唐津焼に関心を持ったのは、昭和40年代後半から、戦後の焼き物ブームの始まりでもあった。そのころも窯跡の盗掘はかなりあっていた。確かS50年前後だったと思うが、特に飯銅甕上窯一帯がひどかった。杉の木が倒れるくらいに盗掘があっていた。あまりひどいので当時、佐賀新聞の記者で唐津の方に来ていた高校の同級生でもあった、北島さんに現場を見てもらい、記事に書いていただくと同時に、県の担当の方にも連絡してくれたので、数日後には県から現場を見に来ていただいた。その後、飯銅甕下窯の周辺に窯を守る為の排水路や防護網などをしていただいたが。盗掘防止については中々妙案がなく時々見回ったり、盗掘防止の立札を立てる等しかなかった。昭和の終わりから平成に入ると皿屋窯などの盗掘がひどくなった。そのころから、これは何とかせねば窯跡が壊れてしまうとの心配もあり、まず窯跡の確認調査を村教委にお願いしていく事から始めた。学術的調査をしなければ国の文化財の指定にはならないので、文化財の専門員を村で雇っていただくよう、知り会いの議員さんたちを通じ議会でお願いをしていただいた。

古窯跡の周辺の盗掘は相変わらずやまることない。時々パトロールをしながら、時を過ごしていたが、数年後、専門員の採用が決まったので、年次計画で5基の窯跡の調査をしていただき合併前には国指定への申請を終えることが出来た。H17年に国指定が正式に決まった。しかしその間も盗掘防止への取り組みは、数人の協力者を得て続けていた。その間、特に,佐賀新聞やNHKの方には、盗掘の件などを時々取り上げて頂きありがたかった。窯跡の確認調査後は、さすがに盗掘の数は減った。

盗掘に関しては、戦後、盗掘をしていた方たちの話を聞くと、陶片でも金になるとか言われていた。特に岸岳の窯のものは高く売れるとの事であった。そういったわけで戦後盗掘をする人達たちにより、もう掘りつくされてしまっていて、調査で掘っても完品に近いのは少なかった。 聞いた話では戦前、炭鉱関係の人らがトラックをもってき盗掘しまくっていたとの話もある。旧唐津の市内の愛陶家の人達もかなり掘りに来ておられたとか、まあ戦前は、文化財法的規制があまりなかったのと住民の関心がなかったこともあり、仕方のない事でもある。戦前戦後を通じ膨大な陶片など、岸岳の焼き物が勝手に掘られ,持ち去られたのは非常に残念な事だ。