徒然雑記      5月5日

朝8時半、セブンへ~岸山~矢代町~芳谷の一部をぶらりと回る・・・。~11時サンキでシャツを買い、焼きもん祭り会場へ、人通りはまずまず~12時駅近くの「居酒屋」ランチ(豚汁)。12時半、メモリードへ。小野家の葬儀~2時過ぎ終了~2時半曳山~昼からは町中も多くなっていた。

3時市民会館へ「古陶のあるくらし」シンポジウムを聞きに、パネリスト~茂木健一郎白洲信哉・勝見允男他・・・。面白かった!本当に唐津焼のことを考えていただくならありがたい事だ。何はともあれ、入場者も多かったし・・・唐津焼きへの関心が高くなればありがたい事だ。 元来、唐津焼は高級品として始まったわけではない。日常雑器から始まったもの・・・文禄慶長の時、茶人=大名たちが訪れたことにより、そういったものの中から茶陶として使われはじめたし、織部などの影響を受けた茶碗などが岸岳の窯でも焼かれ、茶陶としての唐津が意識され始めたのだと思う。

今日のコーデネーターの唐津焼の起源について。文禄慶長以降との発言があっていたが、もう少し唐津焼きの歴史(歴史的な背景)を知っていただきたいものだ。

5時控え室~しばらく雑務。6時半過ぎ地元へ。

世界遺産の記事~佐賀県は近代化遺産として、三重津の海軍所跡?のみ、反射炉は?同じ佐賀藩の近代化に向けての遺産だろうに。

長崎県も福岡県も複数の炭鉱が候補地に挙がっていた。三重津は佐賀藩が幕末近代化に向けて取り組んでいた証として、又草分けとしてその価値はあるかもしれないが、そのことが、日本の近代化へ大きく貢献した事へ直接つながるのか???。

佐賀県は、石炭産出の方が日本の近代化には大きく貢献していると思うけど。

昨年、寄港100周年記念イベントをした。イギリスの客船ボルトンキャッスル号が最初に太平洋を横断し燃料補給の為、日本にで最初に寄港したのが唐津港。まさに欧米まで、唐津の石炭は名が通っていた事示すものだ。幕末から明治大正昭和と厳木相知北波多そして肥前から産出した石炭は、日本の近代化一翼を担ってきた。唐津もその石炭の運搬や積み出しで、栄てきたところ。

明治18年、竹内綱・明太郎親子らによって開坑された芳谷炭鉱、明治期を通じ県内最大の産出量を誇った炭鉱である。数年前、佐賀近代史研究会の方々が、最初の明治の史跡探訪地に選ばれたのが芳谷炭鉱。そのタイトルは「日本の先進的炭坑,芳谷炭鉱」だったと思う。この事の意味を我々はもっと深く考えるべきだろう。

確かに、相知厳木北波多肥前と炭鉱そのもの遺構遺物は少ないかもしれないが、それぞれの地区にまだ形あるものは残っている。関連施設として唐津鉄工所の赤煉瓦の倉庫・旧三菱合資会社唐津支店・旧唐津銀行等々も残っている・・・。

しかし、こういったものに対する取り組みは、多くの人が、その価値を十分理解し,関心を持ち、大きく声をあげ熱意を示さないと、どうにもならない・・・?